JINSの安眠対策メガネ 「NIGHT USE」

ひつじ画像・映像

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JINS SCREEN NIGHT USE
寝る前スマホのお供に。安眠対策メガネ。

眼鏡屋さんのJINSの前を通ったら、お疲れ顔で羊に囲まれる女性の写真と目が合ってしまいました。
なにごとかと思ったら、12月3日より発売されるブルーライトカットメガネの新ラインアップ「NIGHT USE」の広告とのこと。スマホのブルーライトが気になる向きには、ぜひ。

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ヴァリニャーノ 「日本巡察記」

ひつじ話

国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
(略)
牧畜も行われず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。
(略)
彼等の食物と調理法については、材料の点でも、味の点でも、まったくヨーロッパのものと類似するところがない。
結局、彼等の食物に慣れるまでは多くの努力と苦痛を経なければならぬ。

オールコック「大君の都」「サムライ洋食事始」の、幕末の食文化を巡るあれこれに関連して、もう少し。
もっと昔に日本にやってきた西洋人もなにか言っているのではないかと、イエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの「日本巡察記」を開いてみました。
牧畜が行われていないというのは、特記するようなことなんですね、やっぱり。

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江戸期における羽織の歴史。

ひつじ話

1616年、日本に羊毛製品を持ち込んだ英国商館員の本国への報告にあるように
「日本人は、黒、赤などの原色を好み」中間色の毛織物はほとんど売れなかった。
従来の衣生活にはなかった黒と猩々緋の染色のものが、舶来好みとして強烈に志向されたのであった。
少し時代が下がると、羽織に袖がついてくるようになった。広い短い袖である。
袖のついた羽織─つまり陣羽織は、いずれも舶来の毛織物や天鵞絨地である。主体は羅紗である。
上の者が豪華に装えば、下の者もこれに倣って豪奢の風を追う。
羅紗の羽織は一般武士も着用するようになっていった。
一見、陣羽織風ではあるが、豪華な「縫取り」模様はなくなって、やがて無地に近くなり、代わりに、背中に大きな家紋がつけられた。
(略)
羽織は道中の服であり旅行用のものであったが、広く一般に重宝がられて普及すると、道中だけでなく、室内の座敷着として、これをつけて客人と応対するようになり、江戸末期になると、これに袴を加えて一対となして、それを「羽織袴」と称するようになった。
高貴の人や主君の前では羽織は着用しなかったが、それ以外の一般の場合には、これが正装となり、また礼服となった。
布地としては、いろいろ使われたようだが、羊毛加工品は依然として衰えていなかった。

緋羅紗地丸紋付陣羽織白羊毛皮付き羽織、はたまた司馬遼太郎の「胡蝶の夢」などで、江戸期に普及した羊毛の羽織のお話をしているのですが、「羊毛の語る日本史」にわかりやすい解説がありましたのでご紹介です。

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ヴィクトリア朝英国の羊肉料理。

ひつじ話

さて、《名馬シルヴァー・ブレイズ》事件のテーマのひとつは事件当日の月曜日の夕食に登場した、「(アヘン入り)マトンのカレー料理 ”curried mutton”」です。
調教厩舎のあるキングズ・パイランドでは羊を飼育しているので、調教師のストレイカー宅では日曜日のディナーのメイン料理は「ロースト・マトン」であることも多いでしょう。
(略)
必ずローストした残りの肉がある月曜日に、夫のストレイカーはアヘンの味を隠すために「マトンのカレー料理」をリクエストしたのでしょう。
(略)
『ビートン夫人の家政読本』に載っている「マトンのカレー料理」の材料と作り方は、
材料: 冷肉の残り物のマトン、玉ねぎ2個、パター0.25ポンド、カレーパウダーと小麦粉を各デザートスプーン1、塩、スープ1パイント
作り方: スライスした玉ねぎをバターで炒め茶色になったら小さく切ったマトンを入れる。この中にスープをいれてカレーパウダー、小麦粉そして塩を入れてできあがり。

「サムライ洋食事始」「大君の都」をご紹介したところで、さて、ではオールコックがそこまで焦がれた羊肉料理とはなんだったんろうと、「ヴィクトリア朝英国の食卓と生活」を繰ってみましたら、
以前ご紹介したシャーロック・ホームズシリーズの一作「白銀号事件」に出てくるマトンのカレー料理について、一章がさかれていました。ちょっと美味しそうです。

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ニザーミー・アル=アルーズィー 「四つの講話」

ひつじ話

イスマーイールの卒中の治療
マリク・シャーの治世とサンジャルの治世の一部分にかけて、ヘラートにアディーブ・イスマーイールという哲学者がいた。
彼はきわめて優れ、学識がある完全な男であったが、生計を医師としての収入で立てていた。
彼はいくたの珍しい治療を行った。
ある時、彼が屠殺市場を通りかかると、ある屠殺人が、羊の皮を剥ぎ、時どき羊の腹に手を入れ、温かい脂肪を取り出して食べていた。
イスマーイールはこの様子を見て、向かい側にあった八百屋にむかい、
「もしあの肉屋が死んだら、埋葬する前に私に知らせてくれ」と言うと、八百屋は「承知しました」と答えた。
(略)
その時八百屋はイスマーイールが言ったことをふと思い出し、駆けて行って彼に知らせた。
するとイスマーイールは、「死ぬのがおそすぎるぐらいだ」と言って、
杖をとり、その家に行き、死人の顔から布をとり、
(脈を手にとり、「杖で死人の足の裏をたたけ」と命じ、しばらくして「もう十分だ」と言った)。
それから彼は卒中の治療にとりかかった。

12世紀のペルシア散文文学「四つの講話」から、医師に関わる逸話を。
温かい脂肪……たしかに体に悪そうです。

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幕末と西洋料理。

ひつじ話

開国前夜の西洋料理─ペリー主催の饗宴
アメリカ側全権の東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは日米和親条約の調印日を前にした2月29日、自分たちの主張がほぼ盛り込まれる見込みがついたとして、ポーハタン号に日本側の関係者を招いて大饗宴を催した。
(略)
コックは甲板で飼育されてきた牛、羊、鶏をはじめ、ハムなどの貯蔵肉、魚、野菜、果物などを惜しみなく使って極上の料理を用意した。
(略)
ただしどれだけの日本人が味わいながら食べていたのかは疑問である。
現にアメリカ人記者も日本人が積極的に料理を口にしたのは、旨いからというより、物珍しさや好奇心によるものと見ており、その証拠に日本人たちがテーブルに運ばれてくる料理や果物などについて一つずつ、その名前を知りたがり、全部味見をしたことからも明らかだとしている。
太平洋を渡った170名
和親条約に続き、通商条約の交渉が始まり、それが締結された後に初めて幕府の使節団が海を渡ったのである。
(略)
艦内での食事は朝8時と午後2時の2回と決められていた。
医師の村山伯元(31歳)は出港直後の食事内容を次のように記している。
「1月19日、羊肉・雉子、ジャガタラ芋煮つけ、米国の酒、飯は邦米なり、茶は砂糖を入、味殊によし」(『奉使日録』)
その後の使節団
徳川昭武が兄の将軍・慶喜の名代としてパリ万博開会式に出席するため、随員28名を伴い、横浜を発ったのは慶応3年1月11日である。
(略)
随行した渋沢篤太夫(のちの栄一)が食事内容を細かく書き留めている。
(略)
「同10時頃にいたり、朝餐を食せしむ。器械すべて陶皿へ銀匙、並銀鉾、包丁等を添へ、菓子、蜜柑、葡萄、梨子、枇杷、其の他数種、盤上に羅列し、随意に裁制し、食せしめ、又葡萄酒へ水を和して飲しめ、魚、鳥、豚、牛、牝羊等の肉を烹熟し、或は炙熟し、パンは一食に二、三片適宜に任す。」

以前、オールコックの「大君の都」で、幕末の日本にやってきて、羊肉を手に入れられずに苦しむ西洋人の様子をご紹介したのですが、では初めて羊肉料理と出会った日本人たちはどんな反応を示したのだろうと、「拙者は食えん!―サムライ洋食事始」を見てみました。
タイトル通りに「食えん!」となったエピソードも山盛りでしたが、意外に屈託のない人たちの姿も目立ちます。

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