マンデヴィル「東方旅行記」(続き)

ひつじ話

以上の島々から海路でなん日も東へむかうと、マンシーと呼ばれる一大王国に達する。
(略〉
また、この国には、羽毛のない白い牝鶏がいて、わが国の羊みたいに、まっ白い羊毛をはやしている。

第二十二章より

こんどは、カタイの国の彼方にある国々や島嶼について話したい。
(略)
さて、この国土からさらに進むと、バカリイに達するが、そこには凶悪な人間がたくさん住んでいる。
また、国内には、まるで羊のように、羊毛を生み出す樹木があって、人々はこれで布を作る。

第二十九章より

先日の、マルコ・ポーロ「東方見聞録」(続き)から勢いづきまして、やはり昔お話をしたマンデヴィル「東方旅行記」を読みなおしてみました。
以前は植物羊関連のお話ばかりをしていたのですが、他にも少しだけヒツジに触れた箇所があるようです。羊毛牝鶏については、挿絵をご紹介したことも。

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谷泰「牧夫の誕生」より。

ひつじ話

草の支給量に対してもはや肉の取得量が増加しない成長期を過ぎた雄は、確実に徒食者と見なされることになる。
こうして、一歳半から二歳までの雄を殺すためだろう、動物考古学者は、残存消費遺骨のなかで、ある段階から、この年令以上の雄が減少するという一般的事実を確認している。
(略)
しかもこの消費戦略が、その後、西アジアの牧民のもとで、変わらず実施され続けられたことは、歴史的資料からも確認されている。
たとえば紀元前1000年期の新バビロニア時代の委託家畜の記録でも、家畜群の性・年齢構成において、雌に対する雄の頭数はきわめて少ない。
またシュメール時代、周辺地域から貢納としてもたらされた羊・山羊のほとんどが雄である。
そしてこのような雄が、神殿において供犠獣として用いられている。
周辺地域の牧民たちは、群れを殖やすに役立つ雌は資本財として手元に残し、間引くべき雄は流通財として貢納として出した。
そこに見られる性差に応じた財としての差異化も、再分配の中心である神殿での供犠における雄の特化も、まさにこういう初期牧畜の成立以後ずっと維持されてきた家畜経営戦略を前提することなしには成立しえなかったことと言ってよい。
しかも、この一歳を過ぎた段階で幼雄を一斉に間引くというプラクティスが、ヘブライズムでの過ぎこしの祭り、キリスト教での復活祭、またイスラムのラマダンあけの祭りで、当歳の雄を殺して食するという慣習の背景にあることはすでに指摘した。

先日の、乳加工食品の成立についての論考があまりにおもしろかったので、改めて、同著者の「牧夫の誕生」を読んでみました。引用は、羊・山羊の家畜化以後の技法的展開に関する部分。やはり刺激的です。

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渡辺崋山 「十二支図巻」(部分)

ひつじ話

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「渡辺崋山・椿椿山が描く花・鳥・動物の美」展カタログ

江戸後期、渡辺崋山の「十二支図巻」より、羊の部分を。愛知県、田原市博物館蔵です。

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マルコ・ポーロ「東方見聞録」(続き)

ひつじ話

チパング諸島に住む偶像教徒は、マンジやカタイの偶像教徒と同じ系統に属しており、その奉ずる所も同様に、牛・豚・犬・羊その他の動物の頭をした偶像である。
一頭にして四面の偶像もあれば、本来の首に加えて両肩の上にもう一つずつの首をそなえた三頭の偶像もある。
腕が四本もしくは十本・千本もある偶像すらあって、特に千手を具した偶像は最高の地位を占める。

以前、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくる巨大ヒツジのお話をしたことがあるのですが、さて、では我らがジパングについては、ヒツジ関係でなにか言ってくれてはいないものかと確認してみましたら、こんな記述がありました。
「三頭」や「千手」については千手観音などを連想すれば良いかと思うのですが、「動物の頭をした偶像」というのがわかりません。
十二生肖の像が近いような気もしますが、さて。

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島田元旦「黄初平図」(続き)

ひつじ話

江戸時代の羊図は、十二支図や動物図鑑として伝わったものを参考に描かれたものが少なくない。
しかし、1817年(文化14)には、巣鴨の薬園で幕府による日本初の緬羊飼育が行われたことなどから、絵師の中には実物を見たことのある者もいたと考えられる。
(略)
原本はおそらく羊飼いをテーマとした銅板だが、そのためか羊がとても可愛らしい。
江戸生まれの元旦は谷文晁の弟で、のちに島田家の養子となった。
緬羊飼育の責任者だった渋江長伯を隊長とした蝦夷地調査にも加わり、アイヌ絵を描いたことでも知られている。

江戸期のヒツジの微妙な立ち位置についてはわりとよくお話しているのですが、そちらに関連して。
以前ご紹介した島田元旦「黄初平図」ですが、実物を見て描いた可能性が示唆されています。
渋江長伯の巣鴨の薬園についてはこちら、画題の「黄初平」についてはこちらをご参考にぜひ。

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「山海経」の脂肪尾羊。

ひつじ話

郭璞は大月氏国には驢馬ほどもある大形の羊がおり、尾は馬の尾に似ているといっている。
カンヨウとは西アジア・中央アジアに分布していたいわゆる太尾羊のことであろう。
この種の羊は尾の付け根の両側に相当量の脂肪の塊があり、その臀部の脂肉を切り取り、それで乾肉を作るとともに、その切り口を縫合しておくと、また臀部の脂肉が旧に復するという。
カンヨウはいわば取っても取ってもいっこうに減らない脂肉の貯蔵庫だというわけである。(榎一雄「大月氏の太尾羊について」)。
銭来山麓の人びとは、セキ、つまり、厳寒時に手足に生じた皹・あかぎれなどを治すために、カンヨウの脂肉を手足に塗ったのである。

先日、「遊仙詩」をご紹介した郭璞ですが、むしろこの人物は「山海経」の注釈者としてのほうが有名なのではと気が付きまして、羊に似た怪異についてなにか言っているのではないかと解説書を開いてみましたら、ありましたありました。
以前にお話したことのある「シンヨウ」(こちらの本では「カンヨウ」になってますが、同じものかと)は、実在の脂肪尾羊と関連させて考察することが可能なようです。

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郭璞 「遊仙詩」

ひつじ話

京華遊俠窟    京華(けいか)は遊侠の窟、
山林隱遯棲    山林は隠遯の棲。
朱門何足榮    朱門 何ぞ栄とするに足らん、
未若託蓬萊    未だ蓬莱に託するに若かず。
臨源挹清波    源に臨んで清波を挹(く)み、
陵崗掇丹荑    崗に陵(のぼ)って丹荑(たんてい)を掇(と)る。
靈谿可潛盤    霊谿(れいけい) 潜盤(せんばん)す可し、
安事登雲梯    安んぞ雲梯に登るを事とせん。
漆園有傲吏    漆園に傲吏(ごうり)有り、
萊氏有逸妻    莱氏に逸妻有り。
進則保龍見    進めば則ち竜見を保てども、
退為觸藩羝    退いては藩(かき)に触るる羝(ひつじ)と為る。
高蹈風塵外    風塵の外に高踏し、
長揖謝夷齊    長揖して夷齊(いせい)に謝せん。

晋代の文学者郭璞による「遊仙詩」を。
世俗を捨てて仙境に隠遁したい、といった内容ですが、その中に「いったん疎んぜられたら、そのとき隠退しようとしても、もはや身動きできないのだ。」(同書解説より)という意味で、以前お話した「易経」の「触藩羝」の語が使われています。

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オールコック 「大君の都」

ひつじ話

牛肉と羊肉をすこしも食べないでいると、イギリス人の体質はいつか重大な支障をきたすにちがいない。
われわれは海外にきわめて多くの属領を有する小さな島国の国民であるがゆえに、当然はるかなる東洋の土に派遣されて、長いあいだ故郷とのいっさいのつながりを断たれ、流刑にも似た状態におかれるようなこともありうるというふうに考えるように育てられている。
年々何千、何万という人びとを両親のもとから巣立たせる仮借なき必然に、われわれがなんと冷静にしたがっていることか、そして知友や親戚とも離れ、社会的・知的な交際を奪われても、いかに耐え忍んでゆくことか、じつに驚くべきものがある。
ところで、読者は、何ヶ月ないし何年にもわたって牛肉や羊肉を味わえないということがどんなものであるかを、切実に感じたことがあるかどうか。
そういう目にあったことのない人びとには、このような状態のもとではとうてい健全な精神を保持することは不可能だといいたい。

先日のアンベール「続・絵で見る幕末日本」に続いて、幕末の西洋人による日本見聞記をもうひとつ。ラザフォード・オールコックの「大君の都」です。食生活が思うに任せないことについて苦しんでいるようですが、その、そこまで……?

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19世紀フランスのファッション。

ひつじ話

男性が刺繍、レース、羽飾り、短ズボン(キュロット)、派手な色の布地、尾錠、宝石などを財産の多少を問わずあらゆる身分の人間に入手可能なフロックコートに取り替えて節約と平等のために犠牲を払っている間、つまり長い歳月にわたって男性のいろいろな自己犠牲が進行する間、きかぬ気の我が美しき伴侶たちは明けても暮れても衣装を替えては喜んでいる。
ギリシア風からトルコ風、中国風からマリー・スチュワート風にメディチ風、あるいはワトーの絵の羊飼女風からルイ十五世時代の侯爵夫人風などと。

19世紀フランスにおける、ブルジョワジーの衣服の変遷について語る「衣服のアルケオロジー」から。「ワトーの羊飼女風」ファッションが、当時の女性たちのあいだで流行したのでしょうか。

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