「イエズス会日本年報」より、本能寺の首級。

明智は城内にゐては安全でないと考へ、宵の口に主城坂本に向って逃げた。
彼はほとんど単身で、世人の言ふところによれば少しく負傷してゐたが、坂本には到着せず、聖母の祝日にはどこか知れぬところに隠れてゐた。
翌日は首を斬る熱が甚しく、信長の殺された場所に最初に持参したのが千以上であった。
これは悉く同所に持参するやう命ぜられた故であって、信長を祀るためそこに並べた。
(略)
その後二日を経て、パードレ・オルガンチノと予と信長の殺された場所を通過した折、数人で三十以上の首級を携へて来たが、縄で下げて、恰も羊または犬の頭を運ぶやうにし、少しの悲しみの様子も示さなかった。

徳川家康の駿府御分物帳豊臣秀吉の大坂城と来たからには、織田信長関係でなにかヒツジ話はないかと、さらに「イエズス会日本年報」を繰っていましたら、とんでもない表現にぶつかってしまいました。
本能寺の変及び山崎合戦ののち、明智方の首級が本能寺に集められるさまを記した場面ですが、人の首がヒツジの頭にたとえられてます。日本人的には、それはそれで怖いんですが……。


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