ミルトン 「リシダス」

ひつじ話

われら ともども手をとりて、同じ丘にてはぐくまれ、
泉、森かげ、清流のほとりに同じ群羊(むれ)を追い、
小高き丘の森かげに
暁あかく明くるとき
われらともども野に出でて
冷たき朝の露をもて 羊の群を育てつつ
夕空に昇る明き星
西転の軌道(みち)を下るまで
暑苦しき蟋蟀(こおろぎ)の翅音(はおと)ひねもす聞きたれば。

17世紀、清教徒革命下のイギリス、ジョン・ミルトンによる、亡くした友人を追悼するパストラル・エレジー「リシダス」を。
「同じ丘」で「同じ群羊」を追うという隠喩によって、同じ学舎で過ごし、ともに学究にはげんだ思い出が語られます。
牧歌(パストラル)については、田園詩、田園画ともに、このあたりで。

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「本草綱目 獣部」より「羊」

ひつじ話

地生羊
西域に産する。劉郁の出使西域記に『羊臍を土中に種(う)ゑて水を漑(そそ)いで置くと、雷を聞いて臍が生える。その臍は地に連つてゐるのだが、生長してから木聲で驚かすと斷(き)れ離れて歩行(ある)き出し、草を囓(く)ふ。秋になるとその臍の肉を食へる。また瓏種羊(ろうしゅやう)と名ける種類のものもある』とある。
段公路の北戸録には『大秦國に地生羊といふがある。その羔(かう)は土中から生ずるので、國人は牆を築いてそれを圍う。臍は地と連つてゐて、割けば死ぬものだ。しかしただ馬を走らせ鼓を撃つて驚かすと驚き鳴いて臍が絶ち斷れ、水草を逐ふて行くものだ』とある。
呉策の淵頴集には『西域では地に羊が生える。脛骨を土中に種ゑ、雷聲を聞くとその骨の中から羊子が生れ、馬を走らせて驚かすと臍が脱ける。その皮は褥(しとね)になる。あるひは漠北地方では羊角を種ゑると生えて、大いさ兎ほどの肥美なものになるともいふ』とある。

「本草網目啓蒙」「和漢三才図会」のお話で触れている、本家中国の「本草綱目」のご紹介がまだでしたので、あらためて。
地生羊、または植物羊、バロメッツといった「地に生える羊」モチーフに関しては、まとめてこちらでぜひ。

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羊の字の字源

ひつじ話

犠牲を宗廟に進める意味から羞の字が生まれる。
(略)
丑すなわち物を手にとって進める象形文字と、羊の字との形声会意文字が羞の字であって、字音は「シュウ」、字義は羊を宗廟に進め、供え祭るのを本義とし、転じて供物や料理の意となり、さらに転じて、供物を進め足りないのを恥じる意からはじる意味となった。

先日「ひつじの語の語源」をご紹介した『十二支攷』から、ひきつづいて、「羊の字の字源のはなし」を。
羊の字が関係する漢字については、これまでに「三国志演義」羊神判のお話をしたことがありますが、こちらでは、「羞」についてを。

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ひつじの語の語源

ひつじ話

雑誌『郷土研究』第四巻第二号(大正五年五月) (略) には「稲の反生をヒツジと呼ぶが如く、羊の毛は剪(き)りて反生するより斯く名付けしと云うが穏当と信ず」とある。
(略)
すなわち「ひつぢ」とは稲を刈り取った後に再生または反生する稲の俗称であって、羊の毛を剪って反生するのが、ちょうど「ひつぢ」が刈稲から生ずるのと同じであるところから、羊を「ひつぢ」といったというのである。
さらに「ひつち」または「ひつぢ」の語源については『名語記』は「へづちの転であつて、へづちははえ、づる、とみの反なり」と言い、『言元梯』は「ヒステ(不秀手)の義」といっているが、『日本釈名』『東雅』『名言通』『大言海』はいずれも「ヒツチ(乾土・干土)の義」としている。
この説の弱点は上古はヂとジを現在のように混同することがなかったのに、この転化がなぜ行われたのかの疑問が残るところにあるが、ヂがジに転ずる例は必ずしも稀有のことではない。

ご紹介はしたものの、まず動物の羊とは関係ないだろうと思っていた「ひつじ田」ですが、前尾繁三郎『十二支攷』の、「ひつじの語の語源のはなし」と題された章を読んでいたら、いきなりつながってしまいました。
ひつじ田の稲とかけて羊の毛ととく。そのこころは刈ってもまた生えてくる。よって、動物の「羊」を「ひつじ」と呼ぶ、ということのようです。なんと。

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メムリンク 「聖カタリナの神秘の結婚」

ひつじ話

「聖カタリナの神秘の結婚」 「聖カタリナの神秘の結婚」(部分)
メムリンクは、聖女や聖人たちに囲まれる聖母というテーマをたいへん気に入っていたようです。
彼はファン・デル・ウェイデンの作風から強い影響を受けましたが、それをさらに甘美で繊細な絵画にしました。

先日、「ボードワン・ド・ランノワの肖像」をご紹介したヤン・ファン・エイク、「フィリップ善良公の肖像」のロヒール・ファン・デル・ウェイデン、「寄進者ヴェルルと洗礼者ヨハネ」のロベール・カンパンらの次の世代にあたる、15世紀フランドルのハンス・メムリンクによる、「聖カタリナの神秘の結婚」です。聖カタリナのうしろに、羊を連れた洗礼者ヨハネ。
「聖カタリナの神秘の結婚」をテーマにしたものとしては、マテオ・セレーソアンドレア・デル・サルトをご紹介しています。

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アポリネール 『動物詩集』より「チベット山羊」

ひつじ話

チベット山羊
この山羊の毛の見事さにも
ジャソンがあれほど難儀して
探しまわった金羊毛にも
なんの値打ちもないほどさ、
ぞっこん僕が惚れこんだ
あの黒い毛に較べたら。

「地帯」をご紹介しているギヨーム・アポリネールの詩をもう一編。堀口大學訳、「動物詩集 又はオルフェ様の供揃え」より、「チベット山羊」を。
ご紹介したばかりの「神曲」もそうですけれど、イアソンって、あんまり英雄らしからぬ扱いを受けがちなんでしょうか。

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ダンテ 『神曲』「地獄篇」第十八歌

ひつじ話

そこで、ダンテはその古い橋の上に立って、向かい側からこっちへやってくる群集の列を見守っていたが、彼らも同様に鞭うたれていた。
ダンテが質問するまえにヴィルジリオが説明をはじめた。
「むこうからやってくる身体の大きな者を見たまえ、彼はどんなに苦しんでも涙を流さない、なんといまだに王者の威厳をたもっているではないか。
あれはジャソーネといって、勇気と知恵でコルキス人から牡羊を奪った者だ。
(略)
かくして、彼がメデアにした裏切り行為は報復を受けたのだ。」

ダンテ・アリギエーリ「神曲」から。
「地獄篇」第十八歌で描かれる第八圏第一嚢、「婦女誘拐者の嚢」にジャソーネ(イアソン)がいるようです。イアソンが何者かについては、このあたりでどうぞ。
ダンテが私淑し案内者として登場させたヴィルジリオ(ウェルギリウス)についても、「牧歌」をご紹介しております。

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辻邦生 「春の戴冠」

ひつじ話

父マッテオは富裕な羊毛輸出入商(カリマラ)であり、仕事のかたわら読書に専念し、著書も数冊残している。
(略)
そのなかには、わがフィオレンツァの花々しい興隆の姿が、雲の低く垂れた北の町々、ロンドンやブリュージュやリオンやリューベックなどの賑やかな風景、また梱包された羊毛、穀物袋、皮革、オリーブ油を満載したジェノヴァの船の風をはらんだ帆柱の軋りなどとともに克明に記されているのである。
いや、それだけではない。父の日記にはその日々の羊毛の取引高、手数料の変動、輸出織物の数量なども、少し右斜めにかしいだ几帳面な字体で詳細に記されている。
(略)
都門からはかたい石だたみの道を鳴らして馬車がひっきりなしに入ってきた。
もしその馬車がサン・フレディアーノ門からやってくるとすれば、それはほとんどピサを経由してジェノヴァから送られてきた羊毛の袋を満載していた。

フィレンツェの話をもう少し。
15世紀のフィレンツェを舞台にした辻邦生の歴史小説から。
羊毛を扱う富豪の家に生まれ、サンドロ・ボッティチェッリの幼友達でもあった主人公の「私」の目を通して、メディチ家による花の都の黄金時代と、サヴォナローラの台頭と破滅までが描かれます。
引用はその冒頭、すでに年老いた「私」が少年時代を回想し、その活気あふれる様と現在の荒廃とを引き比べて打ちのめされる場面です。
ボッティチェッリは、システィナ礼拝堂のモーセをご紹介しています。こちらの小説でも出て来ますよ。

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ヤン・ファン・エイク 「ボードワン・ド・ランノワの肖像」

ひつじ話

「ボードワン・ド・ランノワの肖像」 「ボードワン・ド・ランノワの肖像」(部分)
モランベエの城主でリールの知事をつとめ、1427および28、9年の善公の求婚使節団に副団長格で参加してアラゴン、ポルトガルへ赴き、帰国して1430年1月10日に金羊皮騎士団員に任ぜられ、同名の頸章を受けた。

 「ファン・エイク全作品」 

ヘント祭壇画を何度かご紹介しているファン・エイク兄弟の弟、ヤン・ファン・エイクの「ボードワン・ド・ランノワの肖像」を。
同時代の画家である、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「フィリップ善良公の肖像」ロベール・カンパンの「寄進者ヴェルルと洗礼者ヨハネ」もご参考にぜひ。
胸にさげている金羊毛騎士団勲章については、こちらでまとめてどうぞ。

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タッソー 「エルサレム解放」

ひつじ話

 だがしかし、泣き濡れているうちに、その嗚咽を
掻き消すような澄んだ音色が流れてきて、
それはどうやら、いや確かに、牧人たちの歌声を
交えつつ、森の鄙びた風笛が奏でる調べのようである。
起きあがって、音の在処へと覚束ぬ足どりで歩み寄り、
見れば白髪の老翁が一人、涼やかな木陰に座して
羊の群れの傍らで藤の小籠を編んでいる、
三人の牧童の歌と楽の音に聞き入りながら。

16世紀イタリア、トルクァート・タッソの叙事詩「エルサレム解放」から。
以前、ヴァランタン・ド・ブーローニュ「エルミニアと羊飼い」でご紹介した、異教徒の王女エルミニアが十字軍に襲われて森に逃げ込み、羊飼いたちにかくまわれる場面です。

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フィレンツェ共和制におけるアルテ

ひつじ話

フィレンツェ共和制の中身は商工業者の同業組合による支配であり、「アルテ」と呼ばれる組合に加入していなければ参政権はなかった。
そのアルテも大小二種に分類され、法律家、梳毛、毛織物、絹織物、商業、銀行、医薬業の七つが大アルテ、肉屋、酒屋、大工、石工、左官等十四の業種が小アルテと呼ばれる。
(略)
今やトスカーナ地方の半分以上を占める共和国領土を、フィレンツェという一都市が独裁的に支配し、そのフィレンツェの中では三千名の商工業者が権力を独占するという構図である。
ペストの惨禍から立ち直って経済成長が続く中で、その三千の特権層の中にも貧富の差が広がり、大アルテに属する富裕市民はますますその力を振るい、小アルテの権限は著しく狭められた。

先日ご紹介した「ルネッサンス巷談集」絡みで。14世紀フィレンツェの「羊毛組合と肉屋組合」の実際について、イタリア史の概説書から引いてみました。
14世紀前後のフィレンツェ関連では、これまでに、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂スペイン人礼拝堂「ルネサンス画人伝」の「ジョット」フラ・アンジェリコの「聖母戴冠」ギルランダイオ「神殿から追い出されるヨアキム」ブルネレスキとギベルティが競い合った「イサクの犠牲」などをご紹介しています。

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クロムウェルの牧歌願望

ひつじ話

ことにもし〈牧歌願望〉とでもいうべきものを考えるなら、それはあきらかに庭園隠棲の願望と同次元のものであったと理解すべきである。
牧場も庭も、いわゆる中間的景観として、人類にとって普遍的な快楽原則の空間たりえた。
あのクロムウェルですら、長い困難な公人としての奮闘の生活に倦み疲れたとき、つぎのように彼の〈牧歌願望〉を表現している。
「(略) こんな地位を得るよりは、森陰に住んで、羊の群を飼っていたほうが、ずっと嬉しかっただろう。」
しかしこの後にクロムウェルは、一言ドスの利いた言葉を付け加える。
「私はこれを、国家の安全のために引き受けたのだ」と。

川崎寿彦による英国庭園史から。17世紀、清教徒革命に関わる一章に、オリバー・クロムウェルの議会解散演説との註釈がついた一文が。

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サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂スペイン人礼拝堂壁画

ひつじ話

「教会の伝道と勝利」
黒死病後の「危機の時代」の雰囲気や考え方、そして美術の特徴が最もよく表現されているのはスペイン人礼拝堂の壁画である。
礼拝堂の壁面を覆いつくすフレスコ画の数々は、たしかに圧巻だが、あまりに教義的で、気楽な気分では見ていられない。

14世紀フィレンツェ、アンドレア・ダ・フィレンツェによるサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂スペイン人礼拝堂フレスコ画の部分を。
フィレンツェと黒死病の関係については、こちらでも触れたことが。

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「まりーちゃんのくりすます」

ひつじグッズ

「まりーちゃんのくりすます」
ふゆです。
ゆきが ふりました。
まりーちゃんは
いいます、
しろい ひつじの
ぱたぽんに。
「もうすぐ くりすますよ、
わたし とっても
うれしいわ、ぱたぽん。」

冬用絵本をもう一冊。
以前ご紹介した「まりーちゃんとひつじ」のシリーズです。あいかわらずマイペースで仲良しな二人の会話が愛らしいですよ。
クリスマス絵本は、これまでに、「ラッセルとクリスマスのまほう」ブルーナの「クリスマスって なあに」「ひつじかいのふえ」「クリスマスのねこ ヘンリー」「羊飼いの四本のろうそく」「ぐうたらサンタとはたらきもののひつじ」などをご紹介しています。

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中世の旅

ひつじ話

《こうして彼と愛に対する世の讃美は次第に生まれていった。
彼と仲間はどこへ行っても村やちっぽけな場所に近づけば、羊飼いは羊の群れを放り出し、先立って急いで走り、人びとに彼の到着を告げた》。
この件りはニュースや噂の伝わり方をかい間見せてくれる。
(略)
羊飼いは使者に適していた。
彼らは逞しく、辛抱強く、食料、衣服、宿に関しても欲がなかった。
地理をよく心得ていた。毎年家畜を遠路平野から山脈へ、時には山越えまでして駆り立てるさすらいの羊飼いは―南仏ではピレネー山脈越えしてカタロニアへ行ったように―道も小径も知っており、数か国語に通じていたろうし、きっと途中の人とは知り合いだったろう。

中世ヨーロッパにおける旅行者たちのありようを網羅した「中世の旅」から、12世紀の遍歴説教師聖ノルベルトの旅に関する一章を。
羊飼いは旅行者たちからあてにされる存在だったようで、ほかにも、気候に関する章では、

陸の旅人は秋になると、二、三の状況によって恵まれていると感じた。
日はまだ長く、陽気も野宿できるほど暖かだし、道も乾き、高山の道でも夏の陽ざしで雪が融けたからである。
大勢の人びとが取り入れや葡萄摘みの仕事していたし、まだ羊飼いたちも彼らの群れとともに外にいたので、道路はかなり安全だった。

との記述が見られます。

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