多胡碑の「羊」伝承(続き)。

羊は方角説・人名説・実際の動物説の三つとなる。
第一の方角説は黒板勝美博士が主で、上野国府から未の方(西南)を多胡碑となすと読む。
人名説は最も多いが、その中韓人説と羊太夫説とがある。
韓人説はこの郡に新羅人が居住した文献をたよりにして新羅の帰化人とするもので、多胡郡の大領の名であろうとするもので、尾崎喜左雄博士はその代表であろう。
しかし一方にヒツジは国語であって必ずしも韓人ではあるまいとするのは松岡静雄氏の説である。松岡氏は、ヒツジはヒト(人)ウシ(牛)からきた語で、羊の容貌が人に似ているから起こったとし、この碑文では弁官府の全文を載せていないので、羊を郡領とした意味を略記したのだとするのである。
(略)
最後の実際の羊を給わったとするのは、原田淑人博士の説で、その根拠は既記のようにこの郡内に韓人(主に新羅人)が居住しており、羊と新羅人は古くから関係が深い上に、『延喜式』を見ると隣国下野国の産物に氈が見えるので上野国でも毛織物が作成されたであろうから、建郡と共に帰化人に羊を授けられた恩典を石に刻したものであろうという。

以前お話したことのある群馬県の古碑「多胡碑」に刻された「羊」の正体について、動物説の詳細が知りたいとぼやいておりましたら、「十二支の民俗伝承」に載ってました。「氈」というのは、正倉院宝物にもあるフェルトの敷物のことでしょうか。
ところで、こちらの多胡碑ですが、昨年から公式HPができている模様。

多胡碑は、奈良時代初めの和銅4(711)年に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑です。
建郡に際しては、「羊」という渡来人とおもわれる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になったようです。碑を建てたのも、この「羊」であると考えられ、碑の後段には当時の政府首脳の名を挙げて権威付けをはかっています。

見に行きたいです。

ひつじ話

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