江戸後期の羊飼育。

この時期に幕府が最も力を入れたのは綿羊の牧養で、寛政12年(1800)に「幕府、羊を長崎奉行所に畜う」(物産年表)とあるのを始めとして、『大日本農政史類編』は文化年間(1804─17)に「綿羊を支那に求め、江戸巣鴨に牧養せしむ」としている。
これは幕府奥詰医師の澁江長伯の建白によるもので、「後年漸次蕃殖して三百余頭に至り、年々二次毛を剪し官に納め、官之を浜の薬園にある織殿に下し、絨布を織らしめたり」と記されている。
この巣鴨薬園の綿羊については『古今要覧稿』、『宝暦現来集』にも取り上げられている。
(略)
薩摩藩もこれより先、中国から綿羊を取り寄せて放牧を行っており、天明2年(1782)に同地を訪れた橘南谿は、『東西遊記』の中で「隅州の内にはやぎの牧ありて、多く育てりという」と記しているが、この「やぎ」はヒツジの事で、同時期薩摩を訪れた佐藤中陵は「近来唐土より来る白き羊也。惣身に白毛を出す。長さ二尺余、時々切取て羅紗毛織物の類に製成す」としている(薩州産物録)。
ただし薩摩藩の試みは成功しなかったのか、文政元年(1818)に江戸巣鴨で幕府の紡績の講習を受けている。

時々お話している江戸期の羅紗関連です。その歴史についてはいちどお話したことがあるのですが、あらためて。
平賀源内の国倫織以来、日本はウールの国産化を目指して挑戦を繰り返しています。どうしてうまくいかなかったのか、不思議なほどに。

ひつじ話

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