江戸期のウール産業

ウール製品は持ち込まれる数量も限られ、きわめて高価であった。 (略) だが、海の彼方からもたらされるウール製品へのあこがれは時とともに高まっていき、江戸時代には富裕な商人たちもウールの豪華な羽織や敷物を買うようになった。こうして十八世紀になって服地・敷物の輸入が急増したため、江戸幕府は羊毛製品の国産化を考えだした。
毛織物の国産第一号「国倫織」の試職に成功したのは平賀源内だ。源内は讃岐の国(香川県)志度に長崎から四頭の緬羊を取り寄せ、その毛をもとに一七七一年(明和八)日本人の手で初めて毛織物を織りだすことに成功したのである。
その翌年、田沼意次が老中に就任した。 (略) 彼が打ち出した政策の一環に緬羊の飼育が含まれていた。田沼意次の失脚後も幕府は巣鴨の薬園で緬羊飼育事業を継続した。 (略) 一八〇〇年(寛政一二)には長崎奉行を通じてオランダに製絨所設立の援助を求めたが、毛織物輸出の減少をおそれる東インド会社は役にも立たない技術文献を差し出したのみで、体よくこれを無視したのである。
そこで幕府は中国からの技術導入に方針を転換した。一八〇四年(文化一)二名の毛氈製造技術者と羊が中国から到着、長崎・浦上村で羊を飼育、八幡町の水神社内に設けた仮工場で毛氈製造を開始したが、この計画はわずか半年で終わりを告げてしまった。
このあと幕府の緬羊飼育の中心は巣鴨の薬園に移り、最大三五〇頭規模にまで拡大、民間でも緬羊飼育を奨励した。だが、一八二四年(文政七)の火災で巣鴨薬園の畜舎と二〇〇頭の緬羊を失ったため、牧羊奨励意欲がなくなったようだ。一八三四年(天保五)には勘定奉行の名で「緬羊がほしければ百姓でも下げ渡すので、巣鴨緬羊小屋に来られたし」との達しが出されている。
一八五四年(安政一)には巣鴨の羊を北海道に移して、函館奉行に四〇頭の飼育を命じたほか、頭数は不明だが残りの羊を奥尻島に放したという。
緬羊飼育を試みたのは幕府だけではない。熱心だったのは薩摩藩で、江戸時代のはじめに朝鮮の鬱陵島(現在、大韓民国慶尚北道鬱陵郡)から食肉用の羊を導入、以後継続的に牧羊を行った。また下野黒羽藩は文政年間(一八一八?三〇)、長州藩は安政年間(一八五四?六〇)に緬羊飼育に取り組んだという記録もある。

昨日お話した江戸の見世物に関して、平賀源内が羊を飼ったエピソードが出て来ましたが、どうもこの時代は、日本で羊を飼うためにたいへんな試行錯誤が行われた時期でもあるようです。

ひつじ話

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