修道士の服装史(続き)

紀元六世紀から十三世紀にかけての七世紀間で、初期には倫理的レヴェルにあった問題の焦点が、分類をめざす方向に変わり、かつては色彩の零度、すなわち初期修道生活ではおなじみの染色していない羊毛を求めていたのが、宗教界を黒や白や灰色や褐色などの修道士の衣の色で、念入りにまた決定的に分類するという、真の標章性を示すように代わっていった。
(略)
西欧の修道生活の起源には、簡素と謙虚への配慮があり、修道士は農民と同じ衣服をつけ、羊毛を染めたりはせず、仕上げも施さなかった。(略)
けれども衣服は修道士にとって、ますます重要性を増していった。
衣服は自身の立場の象徴であると同時に、属する共同体の標章でもある。
そのため修道会員の衣装と俗人の衣装の乖離は大きくなっていく。
(略)
九世紀以降、黒は謙虚と改悛の色として、すぐれて修道院にふさわしい色となったようだ。
現実の布地では、黒が茶や青や灰色、あるいは「自然な」色調でしばしば置き換えられていたが、文書ではますます頻繁に「黒の修道士」について語られるようになる。
こうした習慣は十、十一世紀にクリュニー修道院の影響力が拡がるとともに、決定的に定着する。
(略)
色彩の観点からは、シトー修道会の始まりをこの潮流のなかに位置づけるべきだろう。シトー会もクリュニー派の黒に対する反動であり、源泉への回帰をめざしていた。(略)
修道士自身が修道院で紡ぎ、織り上げ、染めていない羊毛で作った布地である。
(略)
托鉢修道会が宗教界に出現したのは、十三世紀初頭であり、これは上記の変化が一段落したときだった。
象徴を求めてならば、遅すぎた。今や標章の時代となっていたのである。
この点に関して例示的なのはフランシスコ会の場合であろう。
彼らもまた色彩の零度をめざしていた。
すなわち粗末で、染色せず、汚く、つぎはぎだらけの毛の長衣であり、灰色と褐色のあいまいな色階に属すものであった。
けれども理念面での執心や彼らの長衣の極端に多様な色合いにもかかわらず、フランシスコ会士は、意に反して外部からは俗人たちにより「灰色の修道士」と呼ばれ、標章化されるようになった。

以前お話した、中世ヨーロッパの修道服の色彩について、もう少し。色彩を身につけることを拒否するための衣が、かえってその色の名によって修道会を区別することになるのですね。

ひつじ話

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