匈奴は、その先祖が夏后氏の子孫である淳維である。 (略) 水と草を追って移動し、城郭とか定まった住居はなく、耕作に従事することもなかった。 しかしそれぞれの領地に分けられていた。 文書はもたず、規約...
投稿: ???news | 2016年10月31日 19:50
盧綰(ろわん)は豊(ほう、江蘇省)の人で、高祖と郷里が同じである。 盧綰の父と高祖の父の太上皇とは仲よしであり、子を生むにあたって、高祖と盧綰は同じ日に生まれた。 里中の人々は羊肉と酒を持っていって...
投稿: ???news | 2009年09月18日 23:26
漢の十一年(前一九六年)、黥布(げいふ)が叛いた。 お上は病気であり、太子に兵をひきいて行かせこれを撃たせようとした。 四人は相談した、「だいたいここへ来たのは、太子さまの地位を保つためだ。太子さま...
投稿: ???news | 2009年08月31日 22:22
楚が鄭に命じて、宋を攻撃させた。 宋は華元を将軍とした。鄭の軍は宋の軍を打ち破り、華元を捕虜にした。 華元は、これから戦おうという時、羊をつぶして士卒にふるまったが、華元の御者だけは羊の羮の分配がな...
投稿: ???news | 2009年08月26日 23:07
趙簡子(ちょうかんし)の家臣に周舎(しゅうしゃ)というものがあって、遠慮なく諫言をすることに抜きんでていた。 周舎の死後、簡子は朝廷に出るたびに、いつも不機嫌であった。 大夫たちが申しわけないと詫び...
投稿: ???news | 2009年08月24日 23:30
微子啓というのは、殷の帝乙(殷の第二十九代の天子)の長男で、紂王にとっては妾腹の兄である。 紂王は位についたが、不明の君主で、はなはだしく政治を乱した。微子がたびたび諫めたが、紂は聞き入れなかった。...
投稿: ???news | 2009年08月11日 22:44
因りて令を軍中に下して曰く、 「猛きこと虎の如く、很(もと)ること羊の如く、貪ること狼の如く、強くして使うべからざる者は、皆これを斬らん」と。 「史記〈中〉楚漢篇」 史記、項羽本紀より。 のちに...
投稿: ???news | 2008年02月23日 20:03
中国の剪紙の歴史は、遙かに商の時代(紀元前16世紀?前11世紀)まで遡ります。 司馬遷の『史記』の中には、西周(紀元前1027年?前771年)の話として、「剪桐封弟」(アオギリの葉を切り抜く)という...
投稿: ???news | 2007年09月15日 19:42
ある事をきっかけに李桓子は孔子を訪問している。「史記」孔子世家のこの部分も、孔子の真意を図りかねる記述であるとして物議を醸すことになる。 ある日、李桓子が井戸を掘っていると土製の瓶が出てきた。そ...
投稿: ???news | 2007年05月20日 18:55
李桓子が井戸を掘っていると、土缶(がめ)のような物が出て来た。なかには羊がはいっている。そこで人をやって仲尼に尋ねさせた。 「わしは井戸を掘って犬を手に入れたが、いったいどうしたわけだろう」 すると仲...
投稿: ???news | 2007年01月26日 22:26
「羊頭狗肉」 これは「羊頭を懸げて狗肉を売る」というのが正しく、狗肉はむろん、犬の肉のことである。 (略) これは中国でも、むかしは「牛首を門にかけて、馬肉を内に売る」という成句であったのが、いつしか...
投稿: ???news | 2006年07月13日 19:55
「史記」によると、黄帝はまた風后、力牧、常先、大鴻の四人を大臣にひき上げて、政治を行わせたという。このうち風后、力牧には、黄帝が夢のお告げによって、民間から見つけ出したという伝説がある。或る夜黄帝は、...
投稿: ???news | 2006年06月21日 22:33