羊山公園(埼玉県)

地名・団体

羊のいる「ふれあい牧場」は、南西(芝桜の丘の西側)になります。
駅から近くてなかなかいいロケーションですねー。

秩父市街地を見下ろす小高い丘の上にあるのが市民のいこいの公園・羊山公園です。
羊山公園に今年できたのが「ふれあい牧場」です。この牧場の管理業務も秩父市シルバーが行っています。
羊山だけに、たくさんの羊がいます。羊はみんな人懐っこく、愛嬌があって、とってもかわいいです。
葉っぱを見せると羊が駆け寄ってきます。かわいい!

同じ公園内に「ふれあい牧場」があり、羊が育てられていました。草を抜いて差し出すと近寄ってきます。近づいてきた羊を我が子はおっかなビックリで触っていました。

「草ちょうだ?い」
はむっ。
モグモグモグ…。
シバザクラの丘を出た所にある「ふれあい牧場」で飼われている羊です(^^;
羊山公園は埼玉県の綿羊の発祥地だったそうで、それが公園名の由来になってます。

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日本100名山 後方羊蹄山

地名・団体

羊蹄山登山歴史
はじめて羊蹄山に登った人は最上徳内で寛永十年(1798年)7月25日虻田に到着、それより羊蹄山登山を試みたようであるが、記録にはない。定説には松浦武四郎が最初の登山者として寛永五年の登山が常識となっている。明治38年蝦夷富士登山会が発足、高山万次郎など倶知安町の政財界人が中心となり羊蹄山登山の啓蒙に勤めた。後に登山会は明治45年レルヒ中佐の一本杖のスキー登山、登山道の整備、石室(雲上閣)の建設、半月湖の臨湖亭(売店、食堂)を昭和10年代まで続けており、羊蹄山登山は当時のブームになっていた。
伝説「神神の住む羊蹄山」..開拓使明治25年刊行「蝦夷風俗」蝦夷起原の事より
今の後方羊蹄岳..いかにも皇国の不二峰に似て、四時ともに雪のきゆるひまなし。上には一つの大池ありて、神霊常に是に住給ひて、その昔は島人みなここに登りて、幣とりせし由なるに、今は土人皆皇国人と物食い合わせ風俗の乱れて...日に減し月に損し、いつとなく神意にそむき、神の怒りをおそれ、近頃では誰一人登るものもなくなりたるぞと、言い伝へぬれど..

この山を羊蹄山と略して呼ぶことに私は強く反対する。古く「日本書紀」斉明朝五年(六五九年)にすでに後方羊蹄山(しりべしやま)と記された歴史的な名前である。その前年、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷を討って、この地に政所を置いた。後方羊蹄山の後方を「しりへ」(すなわちウシロの意)、羊蹄を「し」と読ませたのである。

手元の「日本百名山」(深田久弥)によると「羊蹄山(ようていざん)」ではなく
『後方羊蹄山(しりべしやま)』と読むのが本来のようです。“羊蹄=し”と二字に一音が当たるのを避けて現在の呼び方になったのでしょうか。
古来の別名が「蝦夷富士」。

名前のいわれ
 後方羊蹄山または羊蹄山(ようていざん、1893m)は美しい円すい型の成層火山です。 別名蝦夷(えぞ)富士とも呼ばれ、 西南北海道で一番の高さを誇っています。 国土地理院発行の5万分の1地形図「留寿都」では、 羊蹄山という名の下に括弧付きで 蝦夷富士と書かれており、 さらにそのすぐ下に「後方羊蹄山の高山植物帯」という記載があります。 明治30年に山頂に設置された一等三角点の名が、 シリ・ペッの別名マク・カリ・ベツ(山の・後ろを回る・川)から 真狩岳と名づけられたこともありました。 これらのことから想像できるように、この山の名の由来はちょっと複雑です。
この山は、もともとはアイヌ語でマテネシリ(女山)と呼ばれていました。 羊蹄山の麓を流れる尻別川の名はアイヌ語名のシリ・ペッ (山に沿って下る・川)に由来しますが、 これがなまって、和人はこの川の周辺の地域名(現在の支庁名)を後方・羊蹄 (しりへ・し=しりべし)と呼ぶようになり、 そこにあるひときわ目立つ大きな山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名づけました。 この名が簡略化されたうえ、読み方まで変化して、 いつの間にか羊蹄山(ようていざん)となってしまいました。

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式内 羊神社 (愛知県)

地名・団体

社名の由来
  群馬県多野郡にある「多胡碑」に関係ある
  「羊太夫」(この地の領主)が奈良の都にあがるときに
  立ち寄っていたゆかりの屋敷がこの地 現辻町にあり
  この地の人々が平和に暮らせるため
  「人心を安らかに」という願いをこめて
  羊太夫が火の神を祀ったといわれ、羊神社と呼び称えるように
  なったと伝えられている。

羊神社 絵馬
2003年、羊神社に参拝して撮った絵馬です。

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羊神社 (群馬県)

地名・団体

当社は多胡新田とも呼ばれる宇久保に鎮座し、創建の由来は多胡郡の多胡一族が上里見村真野(多胡神社鎮座)に落ち延び、その後延宝年間に下秋間字日向(堂宇鎮座)と当地へと移住すると共に、多胡新田を開発し、祖神とする多胡羊 太夫藤原宗勝公を祀り、享和2年(1802)正式に多胡羊霊を祀った。
また縁記に『多胡羊太夫由来記』などが伝えられ、それに依れば、羊太夫宗勝は脇羽の生えた若者と権田栗毛という名馬を持ち、一日で都を行き来し参勤し、功により藤原姓も賜ったが 言で官軍に攻められ、最期は金色の蝶となり飛び去ったという。また羊太夫は、秩父で和銅を発見し、その功により多胡郡を賜り、記念に「多胡碑」を建てたとされ、境内にはその碑文の「多胡宮羊太夫宗勝神像位」碑がある。
平成九年には、六十余軒の氏子により社殿、十二社を新築し、遷座祭を行い、翌年、狛犬と三峯社、同鳥居も建立された。
祈祷棟札に大先達龍正院奉修護摩供と享保16年拾二社繁盛祈遷、明治16年の奉再拝、17太々神楽執行札がある。
社紋は下り藤に五輪の塔。

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